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このサイトでは、「矛盾を考え疑問を解消し、ストレスフリーに生きる」事を目的に、運営者が見聞きして得た情報や体験から考察した結果を素直な感想を混ぜた読み物として皆さまに共有しています。あと推し活とかご縁があったコンテンツのPRとかしてる。ぜひ存在を知ってほしいし、機会があれば触れてみてあげてほしい。

矛盾に関してはなるべく中立な立場での執筆を心がけていますが、最終的な結論は運営者の倫理観に依っています。このサイトの情報からご自身で何かを判断・決断される際は、あくまで1人の人間の一意見と捉えるのが健全と思われます。

……かんたんに言うと、僕が見聞きして感じた「なぜ?どうして?」に対して、ただひたすら感想を言っているだけです。

( ˘ω˘ ){僕の考えだけに依存しないでね!
ぼくの ことば が わかりづらいな と おもったら、した の もじ を すこしかえて、chatGPT きいてみると わかりやすく してくれるかも。

「”ここに わかりづらかった もじ を いれる上記の文章を校正してください。表現は7歳の子供にもわかるように修正してください」

言葉狩りでは何も解決しない

施設でもらったテキストの裏表紙に、「このテキストで『障がい者』を『障害者』と表記する理由」といった概要の注意書きが書かれている事に気づいた。

その注意書きによると、ブラウザや読み上げリーダーによっては「さわりがいしゃ」と読まれてしまう事があるので、そのリスク回避のためらしい。確かに、古い機器やシステムが採用されていたり、問題意識のない人がフルスクラッチで自作したアプリや、個別対応リストの設定が人手的にむずかしい環境なんかでは起こり得る。福祉施設という特性上、予算に余裕がなく最新の機材が取り揃えられない事も多いと思うし、利用者さんも利用者さんで金銭的に困ってる方が多いはずなので、自宅で使用している読み上げツールがうまく対応できないかもしれない。そう考えると、このリスク回避は妥当だと思う。

なるほどな~と思うと同時に、表現の規制が如何に生活に弊害を生むかも再認識した。障害者へ気を遣った表現が、逆に一部の障害者のQOLを下げている事の矛盾。なんなんだこれは。「害の字を見てメンタルが凹む人」と「視覚に障害があって読み上げ機能がないと生活がままならない人」のどちらに優先配慮するかなら、どう考えても視覚障害を持っている人の方が優先じゃないか。メンタル凹む人は精神科医のカウンセリング動画や公認心理師のうつ抜け動画を観て認知を変えるとか、自分なりのセルフケアをするとか色々無料の方法があるけど、視覚障害はまだ安価で再現性の高い回復法はなくないか?それとも、「健常者が害の字を見て無意識に差別意識を持つ事を回避」の文脈で表現を変えてみているのだろうか。もしそっちの文脈なら、そんな配慮をしないといけない世界は健常と言えるのだろうか。

障害というのは、多くの場合は相対的な事象であって、例えば世界のほぼすべての人間の耳が悪かったとしたら、耳が良い方が特殊な人間という事になる。もしそういう世界だったとしたら、耳の悪い人に合わせた音量がデフォルトになるので、よく聴こえる人間が逆に生きづらい世界になっていたかもしれない。というか、聴覚が過敏だったりすると体感的にはこの世界もそんな世界だったりする。マジョリティに基準を合わせた方が効率的なので、マイノリティが自己対処を強いられるのは仕方がない面もあるが、基準に合わないからといって杓子定規に弾かれたり、自己対処を「失礼なヤツ」「ズルをしているヤツ」「価値が分からないヤツ」のように認識された時の切なさといったら( ˘ω˘ )

自己対処をマジョリティのお気持ちで封じられてしまったら、周りには合わせてもらえないのに調整もできないという状態に陥るので、当人はどないせえっちゅうの状態である。イメージをあやふやにする事によって意識をさせない、というのは、本当にメンタルがどん底に堕ちてしまっている状態の個人への個別対応としては正しいけれど、社会全体へ向けた呼びかけとしては悪手だと思う。いくら表現を狩ったところで、元々の認知バグを修正しない限り問題は解決しないと思う。隠してそのまま忘れさせるのではなく、「過去にはこういう問題があり、今はこういう風に解決を図っていくのが大切とされている」みたいに、フラットな気持ちでマイナスなイメージを変えていくのが良いと思う。

障害、障碍、障がい その表記の違いはいつから?
(2024年8月11日取得)/ whill.inc より

「社会モデル」は、社会こそが「障害(障壁)」をつくっており、それを取り除くのは社会の責務であるととらえています。←正にコレ

因みに認知という話でいうと、自己犠牲を是とする事の暴力性にも意識を持ってほしいと思っている。この前、スポーツの勝利インタビューで自己犠牲を当然としている未成年がいたが、専門職の人間はムダを削ぎ落とす分、自分のコンディションには気づきにくいので、コーチが常にムリをしていないか観察する必要がある。場合によっては体を壊さないように、支配にならない範囲で認知を軌道修正してあげる(気づきを与えてあげる)必要がある。大人が「後でセルフケアする事を前提に、一時的に自己暗示をかける」だけならまだしも、未成年が大衆に向かって自己犠牲発言をする状態というのは、気づきを促してあげるべき一つの指針ではないかと思う。裏でちゃんとフォローしているかもしれないが、コーチ、どうか選手の無意識に寄り添ってあげてくれ。そのまま行ったらおそらく、行き着く先は故障だぞ。選手きっと、苦しむし悲しむぞ😭

観衆も、自分の気持ちは素直に表現して良いと思うが、SNSなど記録が残る公共の場で素直に表現する場合は、社会全体の動きの予測はしておいた方が安全なのではないかと思う。1人のつぶやきでは危なげな発言も大した事にはならないけれど、100人、1,000人、10,000人と、人数が増えれば増えるだけ、人々は思考を放棄し、まるでハウリングのようにキイィーーーンッッと暴走していく感じがある。協調性がなさすぎるのも人間界で生きる上では危ういと思うが、自己犠牲を持て囃す風潮にすると、無意識に持て囃した対象に犠牲を強いる事になりかねないし、メンタルが完成されていない人間にそれをやると、自己犠牲を存在意義にしてしまう場合もある(「これが出来ない私には価値がない。だから何を犠牲にしてでもがんばらなければいけない。従わなければいけない」という思考破綻をしたり、その価値観を人に押し付けたりなど)。例え意図していないとしても、それは洗脳と依存の構造に近いので、加害にならないであろう範囲で声かけを怠らず、お互いがお互いの体の事を気遣いながら盛り上がるのが良いと思った。

そして、当事者がムリをしていると感じた時(もしくは過度にムリをしていると見受けられる時)は、とりあえず周りがサポートして一旦その場を乗り切ったあと、課題から目を逸らさずにチームで軌道修正を考えていく事が「健全化」という事だと思う。何事も自浄のマインドを持ちながら、楽しく活動していく事が大切だと思う。

ここまで読んでくれて、アリガトな!

食べ物と同じように、摂取したコンテンツが同一でも、その人が受け取る感情は千差万別。
「あ〜、なんか共感できるな〜」「暇つぶしには丁度良かった」「面白かった!」「心に刺さった……」など思っていただけてたら幸いです。
色んな人に存在を知ってもらうという事が大切なので、もしよかったら「#じぇらーたるーぽ」「#gelatalupo」タグを付けて各種SNSなんかに共有したりして感想言ったり拡散してもらえると……嬉しいしありがたいなぁ……(((◜ω◝)))

「おもしれーゼラチン……飼ってやっても良いぜ……」という方はプロフィールから辿ってマンガを読んでいただくなりFANBOXかなにかでちょこっとご支援してもらえたら生きていられてかなりたすかる。うれしい。心からの感謝と「あなたも幸せにな〜れ!」の気持ちを飛ばしながらミリしらランバダを踊ります。

随筆:冷凍オオカミの独唱

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